「本家船はしや」は元々、宇治で茶業を営んでいました。
しかし、度重なる水害で茶畑が全滅。苦境に立たされた本家船はしやですが、心機一転、日本の歴史的都市「京都」へ行くことを決めました。
京都では茶業の縁もあり、寺町夷川の一保堂の軒先を借りて雑穀商を始めました。
米・麦・豆など五穀を扱いながらえんどう豆を焙煎して、京名物となる五色豆の製造を始めることになるのです。
1905年(明治38年)、東海道五十三次では西の起点である三条大橋のたもとに店舗を構えることができました。
そして、代が変われども、手作りの製法と伝統の味を守り続けて今に至ります。
代表的な五色豆のほかに、豆菓子やあられなど新たな商品も登場し、皆様より格別のご愛顧をいただいてまいりました。
移りゆく時代の中、変わらない佇まいの三条大橋とともに、これからも本家船はしやは歩み続けます。
東海道五十三次の京の起点であり、西詰にはそのことを示す里程元標があります。
木造風の風情ある橋で、1590年に建設された木橋の面影を残し、勾欄の擬宝珠(ぎぼし)14個は当時のものが使われています。また、このときの橋脚の一部が、西のたもとに残されています。
橋の上からは東山、北山、比叡山を、夏には、大文字五山送り火を眺めることができます。
三条大橋西詰めのたもとに、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」でおなじみの弥次さん喜多さんの像があります。
その道路を挟んで向かいに「本家船はしや」があります。
江戸時代中期ごろから発展した、料理茶屋や宿場を、幕末には勤皇志士が密会などに利用しました。
現在でも坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や、新撰組の池田屋騒動の跡の碑をはじめ、周辺には幕末志士ゆかりの場所が数多く存在します。
また、佐久間象山と大村益次郎という兵学の鬼才二人が暗殺されたのも、時こそ違えどこの地でした。
先人が築いた歴史とその碑を巡ってみるのもまた一興です。
祇園祭・葵祭とともに京の三大祭のひとつとして知られる「時代祭」は、平安神宮の御神幸の祭儀として、1895年(明治28年)の神宮創建と同時に始められました。
794年(延暦13年)、桓武天皇が平安京に遷都を行った日、つまり「京都誕生の日」である10月22日に毎年執り行われます。
平安時代初めの延暦期から明治維新に至る京都の歴史を、その時代の文物・風俗を身にまとった男女約2,000人によって描く大行列は全長2kmに及び、さながら一幅の絵巻物のように雄大華麗・豪華絢爛です。
京都御所を出発し、平安神宮を終点とするこの行列は、毎年「本家船はしや」の前も通過していきます。